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ch2 : 黄金の華の秘密(太乙金華宗旨)Vol 1

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ch2 : 黄金の華の秘密(太乙金華宗旨)Vol 1
 
 
 
黄金の華の秘密(太乙金華宗旨)
The secret of the Golden Flower
 
 
 
ch2 : The Secret of Secrets, Vol 1
 
 
 
chapter 2
Empty Eyes 
空っぽな目
 
12 August 1978 am in Buddha Hall
 
 
 
質問 1
the first question
 
最近、数人の友達が私に尋ねました
私がサニヤス sannyas、アシュラム ashram やあなた(osho)へ
疑い深い sceptical のではないかと。
 
私は真実を認めなければならず
「はい、今の時点ではそうです。」
と言いました。
これは罪悪感を私に残します。
 
私はなにか許されない unforgivable、
冒涜的な sacrilegious 犯罪を犯したのか、
または
確かではないことに疑い深くあることは自然なことなのか?
 
私はあなたが光明 enlightenment を得ているのかわかりません。
 
私はただあなたの美しさと信頼 trust を感じることができます。
 
 
 
(osho)
 
バハ Bhava、
信仰 faith は疑い doubt を恐れている afraid
 
…恐れている afraid
なぜなら、それを抑圧 repress しているからだ。
 
そして、なんであれあなたが抑圧 repress すると
あなたは恐れている afraid ままだ、
 
なぜなら、それは
いつもあなたの内側 inside 奥深くにあるからだ、
 
復讐 revenge を待っている、
 
そして、機会が生じるときはいつも
それは復讐 vengeance と共にあなたの中で爆発するだろう。
 
 
 
あなたの信仰 faith は地震の上に座っている
 
そして毎日、その疑い doubt は強くなる、
 
なぜなら毎日、あなたはそれを抑圧 repress しなければならないからだ。
 
遅かれ早かれ、
それはあなたが抑圧 repress できる以上のものになり、
それはあなたの信仰 faith 以上のものになる。
 
するとそれは単にあなたの信仰 faith を捨てる。
 
 
 
しかし、信頼 trust は疑い doubt を恐れない
 
なぜなら、信頼 trust は疑い doubt に反しないからだ。
 
信頼 trust は疑い doubt を使う、
信頼 trust は疑い doubt それ自身に含まれたエネルギーの使い方を知っている。
 
 
 
それが
信仰 faith と
信頼 trust の
違いだ。
 
 
 
信仰 faith は偽り false だ、
信仰 faith は宗教 religion の 偽りpseudo の種類を作る、
信仰 faith は偽善者 hypocrite を作る。
 
 
 
信頼 trust はそれについての
崇高 sublime な美 beauty と真実 truth を持っている。
 
信頼 trust は疑い doubt を通して成長する、
信頼 trust は疑い doubt を肥料のように使う、
信頼 trust は疑い doubt を変容 transform する。
 
疑い doubt は友達 friend だ、
疑い doubt は敵 enemy ではない。
 
 
 
そして、あなたの信頼 trust が
たくさんの疑い doubt を通過しない限り
それは無力 impotent のままだろう。
 
どこから力 strength が集まり、
どこから統合 integration が集まるのだろう?
 
もし挑戦 challenge がなければ
それはきっと弱いままだろう。
 
疑い doubt は挑戦 challenge だ。
 
もしあなたの信頼 trust が挑戦 challenge に応えることができるならば、
あなたの疑い doubt の力(援助 befriend)になることができる、
それはそれを通して成長するだろう。
 
 
 
そして、あなたは分割 split された人ではなくなるだろう
 
…奥深いところでは疑い doubting
そして、
表面だけの信仰 faithful や 信じること believing
(というような2つに分割された状態ではなくなるだろう)…
 
あなたはある種の一元性 unity を持つだろう、
あなたは個 individual、非分割 undevided であるだろう。
 
そして、その個性 individuality は
古い宗教では「魂 soul」と呼ばれている。
 
 
 
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魂 soul は
疑い doubt を通してやって来る、
信じる believing ことを通してではない。
 
 
 
信仰 belief はただの仮面 mask だ、
 
あなたはあなたのオリジナル original の顔 face を隠している。
 
 
 
信頼 trust は変容 transformation だ、
 
あなたはもっと輝きになる。
 
なぜなら、あなたは疑い doubt を
挑戦 challenge や1つの機会として使い、
そこにはどんな抑圧 repression もけっしてない。
 
ゆっくり、ゆっくり、
疑い doubt は消え去る、
 
なぜなら、そのエネルギーは信頼 trust によって取られているからだ。
 
 
 
疑い doubt は、実際には、信頼 trust の成長に過ぎない。
 
疑い doubt は信頼 trust の道の途中だ。
 
いつも疑い doubt をそのように考えなさい、
 
疑い doubt は信頼 trust の道の途中だ。
 
 
 
疑い doubt は質問 inquiry で、
信頼 trust は質問 inquiry の達成 fulfillment だ。
 
疑い doubt は質問 question で、
信頼 trust は答え answer だ。
 
 
 
答え answer は質問 question に反しない
 
…もし質問 question がないならば
どんな答え answer の可能性もないだろう…
 
質問 question は
答え answer が起こる機会を作っている。
 
 
 
だから、どうか、私の周りでは
けっして罪悪感 guilty を感じないように。
 
私はどんな種類の罪 guilt にも完全に反対 against だ。
 
罪 guilt は絶対に間違っている。
 
 
 
しかし、何世紀にもわたり、
罪 guilt は
司祭・牧師 priest や政治家 politician や清教徒 puritan たちによって使われてきた。
 
罪 guilt は戦略 strategy だ、
人々を不当に利用する exploit 戦略 strategy であり、
人々に罪悪感 guilty を感じさせるものだ。
 
ひとたびあなたが
人々に罪悪感 guilty を感じさせることに成功したら、
彼らはあなたの奴隷 slave になるだろう。
 
 
 
罪悪感 guilty のために
彼らはけっして十分に統合 integrate しないだろう。
 
罪悪感 guilty のために
彼らは分割 devide のままだろう。
 
罪悪感 guilty のために
彼らはけっして自分自身を受け入れることができないだろう、
彼らはいつも責めている condemning だろう。
 
罪悪感 guilty のために
彼らはなんでも信じる believe 用意があるだろう、
ただ罪 guilt を取り除くために。
 
彼らはなんでもするだろう
 
…どんな意味のないこと nonsense、
どんな意味のない nonsense 儀式 ritual を彼らは行う…
 
ただ罪 guilt を取り除くために。
 
 
 
何世紀にもわたり、
司祭・牧師 priest は人々に罪悪感 guilty を作っている。
 
全ての宗教 religion と呼ばれているものは
あなたの罪 guilt で存在 exist する、
彼らは神 God の存在 existence で存在 exist しない。
 
 
 
彼らは神 God と何の関係もない
そして
神 God は彼らと何の関係もない。
 
彼らはあなたの罪 guilt で存在 exist する。
 
 
 
あなたは恐れている afraid、
 
あなたはあなたが間違っている wrong ことを知っている、
 
あなたは
間違っていない誰かの助けを
探さなければならない。
 
 
 
あなたはあなたが価値がない unworthy ことを知っている、
 
あなたはひれ伏さなければならない、
 
あなたは価値がある worthy 人々に仕えなければならない。
 
 
 
あなたはあなた自身を信頼 trust できないことを知っている、
 
なぜなら、あなたは分割 devide しているからだ。
 
 
 
分割 devide していない人だけが
自分自身を信頼 trust することができる、
 
自分自身の感覚 feeling、
自分自身の直感 intuitionを
信頼 trust することができる。
 
 
 
あなたは内側 inside ではいつも震えている、
 
あなたは寄りかかる誰かを必要としている。
 
そしてひとたび、
あなたが誰かに寄りかかると、
 
ひとたび、
あなたが誰かに依存 dependent するようになると、
 
あなたは子供っぽい childish ままで、
あなたはけっして成長しない。
 
あなたの精神年齢は子供のままだ。
 
あなたはけっして成熟 maturity に達しないし、
あなたはけっして自立 independent にならない。
 
そして、司祭・牧師 priest は
自立 independent になることを
あなたにして欲しくない。
 
 
 
自立 independent は、
あなたは彼を失っている、
 
依存 dependent は、
あなたは彼の全市場、彼の全商売だ。
 
 
 
私はどんな種類の罪 guilt にも完全に反対 against だ。
 
 
 
いつも覚えておきなさい、
 
もしあなたが私の周りで何かについて
罪悪感 guilty を感じはじめるならば、
 
すると、あなたがあなた自身にそれをしているのだ、
 
すると、あなたはまだあなたの内に
あなたの両親 parents や
その司祭・牧師 priest の
声 voice を持ち運んでいて、
 
あなたはまだ私を聞いていない、
you have not yet heard me,
 
あなたはまだ私を聴いていない。
you have not yet listened to me.
 
 
 
私はあなたに
全ての罪 guilt から完全 totally に自由 free になって欲しい。
 
 
 
ひとたびあなたが罪 guilt から自由 free であると
あなたは宗教の人 religious person だ。
 
それが私の宗教の人 religious person の定義 definition だ。
 
 
 
疑い doubt を使いなさい
 
…疑い doubt は美しい…
 
なぜなら、
疑い doubt を通してのみ
信頼 trust は成熟 maturity に達するからだ。
 
それ以外にどのようにしてそれになることができるだろう?
 
それは美しくなければならない
 
…疑い doubt を通してのみ
信頼 trust は中心 center になる。
 
疑い doubt を通してのみ
信頼 trust の花は咲く。
 
疑い doubt の暗い夜は
あなたの近くへ黄金の朝をもたらす。
 
暗い夜は暁 dawn に反対しない、
暗い夜は暁 dawn のための子宮 womb だ。
 
暁 dawn は暗い夜のはじまりの中で準備をしている。
 
 
 
疑い doubt と信頼 trust は
補い合う complementary と考えてごらん、
 
男性 man と女性 woman と同じように、
夜 night と昼 day のように、
夏 summer と冬 winter、
生 life と死 death。
 
 
 
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いつもこれらのペアーは
必然的な補完 inevitable complementariness の用語と考えなさい、
 
けっして対立 opposition の用語と考えないように。
 
 
 
表面では彼らは対立 oppose しているように見えても、
奥深いところでは彼らは友達であり、
お互いを助け合っている。
 
 
 
信頼 trust を持たない人を考えてごらん、
 
彼はどんな疑い doubt も持たないだろう、
 
なぜなら、彼は疑うことについて何1つ持っていないからだ。
 
 
まったく信頼 trust を持たない人をただ考えてごらん
…どうやって彼は疑うことができる?
何を疑うのか?
 
 
 
信頼 trust の人だけが
何かに疑い doubt を持つ。
 
なぜなら、あなたは信頼 trust する
したがって、あなたは疑う doubt。
 
あなたの疑い doubt は
あなたの信頼 trust を証明 prove する、
それ以外にはない。
 
 
 
疑う doubt ことのできない人を考えてごらん
…どうやって彼は信頼 trust できるのか?
 
もし彼がたとえ疑う doubt ことが不可能ならば
 
どうやって彼は信頼 trust することが可能にできるのか?
 
 
 
信頼 trust は疑い doubt と同じエネルギーの最も高い形だ、
 
疑い doubt は同じ梯子の最も低い段階で、
信頼 trust は同じ梯子の最も高い段階だ。
 
 
 
疑い doubt を使いなさい
疑い doubt を喜びに満ちて使いなさい。
 
罪悪感 guilty を感じる必要はまったくない。
 
 
 
時には私について大きな疑い doubt を感じたり
ここで起こっている何かについて大きな疑い doubt を感じることは
完全に人間的で自然なことだ。
 
それは完全に人間的だ
…何1つも異常なさま extraordinary ではない。
 
もし疑い doubt が起こらなければ、
その方がなんだか異常 abnormal にみえる。
 
 
 
しかし、覚えておきなさい
 
人は信頼 trust へ達しなければならない。
 
 
 
疑い doubt を使いなさい、
しかし、
目的地 goal を忘れてはならない、
梯子の最も高い段階を忘れてはならない。
 
 
 
もしあなたが最も低い段階に立っているとしても、
最も高い段階を見なさい。
 
あなたはそこに達しなければならない。
 
 
 
実際には、疑い doubt はあなたを目的地 goal の方へと押している
 
なぜなら、誰1人も疑い doubt と一緒に
安心 ease を感じることはできないからだ。
 
あなたはそれを見たことはないかな?
 
疑い doubt があるときは
不安 uneasiness がある。
 
不安 uneasiness を変えてはならない、
不安 uneasiness は罪 guilt のようだと解釈 interpret してはならない。
 
そうだ、不安 uneasiness はそこにある、
 
なぜなら、
疑い doubt はあなたが立っている場所が不確か uncertain であることを意味する、
 
疑い doubt はあなたが不確か ambiguous であることを意味する、
 
疑い doubt はあなたがまだ1つ (統一)unity ではないことを意味する。
 
 
 
どうしてあなたは安心 ease できるのか?
 
あなたは群衆 crowd だ、
あなたは1人の人 one person ではない、
あなたは多くの人 many person だ。
 
どうしてあなたは安心 ease できるのか?
 
 
 
あなたの内側 inside には大きな雑音 noise があるに違いない、
 
1部分はあなたをこちらの方向へとひっぱり
他の部分はあなたをあちらの方向へとひっぱる。
 
もし同時 simultaneously に
そんなにたくさんの方向へとひっぱられたとしたら
どのようにしてあなたは成長できるのか?
 
きっと
不安 unease、
緊張 tension、
苦悩 anguish
心配 anxiety があるはずだ。
 
 
 
誰1人も
疑い doubt と一緒に
疑い doubt の中で
生きることはできない。
 
疑い doubt はあなたを
信頼 trust の方へと押す、
 
疑い doubt は言う、
 
「あなたがくつろぐ relax ことができる場所を探しに行きなさい、
あなたが全一 total であることができる場所に。」
 
疑い doubt はあなたの友達 friend だ。
 
それは単に言う、
 
「これはホーム home ではない。
行きなさい、
捜しなさい search、
探し求めなさい seek、
探究しなさい inquire。」
 
それは探究 inquire や探検 explore の衝動 urge を作り出す。
 
ひとたびあなたが疑い doubt を
友達 friend ように、
機会 occasion のように、
信頼 trust に対立していないが
あなたを信頼 trust の方へと押していると
見え始めたら、
突然、罪 guilt は消える。
 
大きな喜びがある。
 
あなたが疑う doubt ときでさえ、
あなたは喜びに満ちて疑う doubt、
あなたは意識 consciously して疑う doubt、
そして、あなたは疑い doubt を使って信頼 trustを見つける。
 
それはまったく正常 normal だ。
 
 
 
あなたは言う、
「私はあなたが光明 enlightenment を得ているのかわかりません。」
 
 
 
どうやってあなたがそれを知ることができる?
 
それを知る方法はない
あなたが光明 enlightenment を得ない限りは。
 
それがあなたにも起こらない限り
どうやってあなたが私に何が起こったのかを知ることができる?
 
 
 
ときどきあなたが私を信頼 trust できないと感じることはまったく正しい。
 
奇跡 miracle はときどきあなたが信頼 trust できることだ。
 
ほんの少しの瞬間で十分だ。
 
心配しなくていい。
 
信頼 trust はそのような無限 infinite の力 power を持っている。
 
 
 
信頼 trust はちょうど光 light のようで
疑い doubt は闇 darkness のようだ。
 
小さなろうそくほどの信頼 trust は
長年にわたる闇 darkness を破壊するには十分だ。
 
「私はこの場所にとても長い間生きた、
私はそんなに簡単に去ることはできない
私はこの小さなろうそくのためだけに去ることはできない。」
と、闇 darkness は言うことはできない。
 
小さなろうそくでさえ
長年にわたる、
何世紀にもわたる、
何生にもわたる
闇 darkness よりもっと秘めた力 power がある。
 
しかし、それは行かなければならないだろう…
ひとたび光 light がそこにあれば
闇 darkness は行かなければならない。
 
信頼 trust のほんの少しの瞬間
 
…それら(闇)を遠くへやり間には少なくする、
心配しなくていい…
 
それ(信頼 trust のほんの少しの瞬間)は
全てのあなたの疑い doubt を破壊するには十分だ、
ゆっくり、ゆっくりと。
 
 
 
そして、「破壊する destroying」と私が意味するのは
疑い doubt の中に含まれるエネルギーをただ解放する、ということだ。
 
ただ殻を壊すことを疑い doubt と呼ぶ
 
…そして、内側 inside 奥深くにあなたは信頼 trust への純粋なエネルギーを見つけるだろう。
 
ひとたびそれが解放されると
もっともっと信頼 trust はあなたの役に立つだろう。
 
 
 
あなたは言う、
「私はあなたが光明 enlightenment を得ているのかわかりません。」
 
 
 
あなたが信じないことは良い。
 
もしあなたが信じはじめたら
あなたは探し求めること seeking をやめるだろう。
 
 
 
信者 believer はけっして動かない
 
…信者 believer はいつも信じている。
 
 
 
だから、何百万人もの人々が崇拝 worshipping している
 
教会で、寺院で、モスクで、グルドワラで…
 
しかし、彼らの崇拝 worship は信じること belief から外れている、
 
信じること belief から外れていることで、
それらの何百万人もの人々は無宗教 irreligious のままだ。
 
彼らは神 God を捜していない、
彼らは神 God を探し求めていない
 
…彼らはすでに受け入れている accept。
 
彼らの受け入れ acceptance は説得力がない lame
彼らはそれのために必死 struggle ではない、
彼らはそれを得て earn いない。
 
あなたは戦わなければならない、
あには必死にならなければならない、
あなたは得なければならない。
 
生 life の中に代価 price がないものは何1つもない、
 
あなたは代価 price を払わなければならない。
 
彼らは代価 price を払っていない。
 
そして、彼らは寺院で崇拝 worshipping するだけで
彼らは達するだろうと思っているのか?
 
彼らはまったく愚か者だ、
彼らは彼らの時間を無駄にしている!
 
全ての彼らの崇拝 worship はただの幻想 illusion だ。
 
 
 
本物の宗教の人は信じること believe はできない、
 
本物の宗教の人は捜す search。
 
なぜなら、
その人は信じること believe ができないし、
その人はまだ疑い doubt の中だし、
そして、誰1人も疑い doubt と一緒では休むことはできないからだ。
 
人は探し求め、捜して、見つけなければならない。
 
疑い doubt は
あなたの存在 being を悩ませ gnawing 続け、
あなたを刺激 goading し続ける、
 
「捜しなさい search、
探し求めなさい seek、
見つけなさい find、
そして、あなたが見つける前に
満足 content しないように。」
 
 
 
あなたが信じること believe ができないのは良い。
 
ただ覚えておきなさい、
 
信じる believe 必要はないことを
そして、
信じない disbelieve 必要はないことを。
 
それは起こる。
 
そして、私は幸せだ。
 
 
 
あなたは言う、
「私はただあなたの美しさと信頼 trust を感じることができます。」
 
 
 
それが必要とされる全てだ。
 
それで十分だ、十分より多い、
 
それは他の岸への舟 boat となるだろう。
 
もしあなたが私の愛 love を感じることができれば、
もしあなたが私の信頼 trust をあなたの中に感じることができれば、
もしあなたが私の希望 hope をあなたの中に感じることができれば、
もしあなたがそれが正確になんであるのか知らなくても
なにか美しいことが起こっていることを見ることができれば
 
…あなたはそれを定義することはできない
そして、あなたはそれを説明できない…
 
しかし、あなたは超越したなにかを感じることさえできる…
 
 
 
それが美しさ beauty だ、
美 beauty はいつも超越 beyond だ。
 
あなたは薔薇の花を見るといつでも言う、
 
「それは美しい beautiful。」
 
どういう意味かな?
 
あなたは超越 beyond した何かを見たと言う。
 
目で見えない invisible 何かが
あなたには目で見える visible ようになる、
 
あなたはそれを証明することはできない。
 
もし他の誰かがあなたの横に立っていて
どんな薔薇の美しさをも否定 deny するならば、
あなたはその人にそれを証明することはできない
 
…方法はない。
 
あなたはただ肩をすくめるしかないだろう。
あなたは言うだろう、
 
「では、それについては何もすることはできない。
私は見る
そして
あなたは見ない、
それはそれだ。」
 
 
 
薔薇を解剖し dissect 
そして
薔薇が美 beauty を含むのか含まないのかを見つけるために
あなたは科学者のところへ行くことはできない。
 
それはそれを含んでいない、
 
その美 beauty は薔薇の中に含まれていない。
 
その美 beauty は形 form を超越 beyond している、
 
それは単に薔薇の上で踊っている。
 
目を持っている者は、
彼らが見えるだろう、
 
目を持っていない者は、
彼らが見えないだろう。
 
あなたは化学者へ薔薇を持って行くことはできる、
彼はそれを解剖する dissect だろう、
彼は薔薇の中にあるあらゆるものを見つけるだろう
 
…しかし、薔薇の中に美 beauty はない。
 
 
 
薔薇は
美 beauty の降下 descend から超越 beyond への
引き金 occasion にすぎない。
 
薔薇は
美 beauty を演出するための
ただの画面 screen にすぎない。
 
薔薇は
ドラマ drama が起こるための
舞台 stage にすぎない、
 
薔薇は
ドラマ drama そのものではない。
 
あなたは薔薇を取り去り、
あなたは薔薇を解剖し dissect、
あなたは薔薇をバラバラに切って、
あなたは全ての構成要素 constituent を見つけるだろう
 
…しかし、美 beauty は薔薇の構成要素 constituent ではない、
 
薔薇がないにもかかわらず
美 beauty は降下 descend できない。
 
 
 
それはちょうど朝に太陽 sun が昇り
その光線 rays が蓮の池の上で踊っているようなものだ。
 
あなたはその光線 rays そのものは見えない、
あなたは見ることができない。
 
それが『黄金の華の秘密(太乙金華宗旨)』
The secret of the Golden Flower が言う、
 
あなたは本質(性)essence を見ることはできない、
あなたは生 life を見ることはできない、
あなたが見るもの全ては結果 consequence だけだ。
 
 
 
あなたは光 light そのものを見たことがあるかな?
 
いいや、あなたはけっして光 light を見たことはない。
 
もしあなたが光 light そのものを見たことがあると考えているならば、
あなたはそれについて考えなかった、
あなたはそれをじっくり考えた ponder ことがない。
 
あなたは光っている物は見たことがある、
あなたは光 light そのものを見たことはない。
 
あなたは光った池を見た、
あなたは光った蓮を見た
あなたはあなたの女性や男性や子供の光った顔を見た、
あなたは光った世界を見た、
 
しかし、あなたは光 light そのものを見たことはあるかな?
 
もし光 light を演出するためのものが何もなければ、
あなたは光 light を見ることはできないだろう。
 
 
 
だから、宇宙飛行士が地球から離れていく瞬間、
昼間でさえも、
空 sky は暗く dark、まったく暗い dark、
 
なぜなら、あなたは光 light そのものを見ることはできないからだ
そして、そこには光 light を演出するためのものが何もない。
 
したがって無限 infinite の空 sky は暗い dark。
 
あなたは星の光 light を見る
なぜなら、星が光 light の遊び場になるからだ
しかし、星を取り囲んでいるのは全て暗闇 darkness だ
なぜなら、光 light を遮る obstruct ものが何1つもないからだ。
 
光 light が遮られない限り
あなたはそれを見ることはできない。
 
 
 
あなたは光明 enlightenment を見ることはできない、
 
あなたはそれの結果 consequence だけを見ることができる。
 
 
 
あなたは私に何が起こったのかを見ることはできない、
 
しかし、あなたは起こった何かを見ることはできる、
X のような何かを。
 
 
 
それを光明 enlightenment と呼ぶ必要もない、
ただ X がするだろう。
 
何か神秘的なこと mysterious が起こった。
 
そして、あなたがもっと私を感じると、
あなたはもっとそれに気づく aware ようになるだろう、
 
そして、あなたがもっとそれに気づく aware ようになるとき、
 
あなたの内側 inside にある何かが
それに応答 respond し始めるようになる。
 
私に起こった何かは
あなたの中で過程 process を引き起こすことができる。
 
それはあなたの光明 enlightenment の原因 cause であることはできない、
 
覚えておきなさい、
 
あなたの光明 enlightenment
私の光明 enlightenment の結果 effect ではないだろう。
 
 
 
導師 master と弟子 disciple の間に
原因 cause と結果 effect の関係性 relationship(因果関係)はない、
 
それは全く異なる種類の関係性 relationship だ。
 
 
 
ちょうどこの世紀に
カール グスタフ ユング carl gustav jung は
その異なる種類の関係性 relationship の
神秘を見抜く penetrate ことができた。
 
彼はそれを「共時性 synchronicity」と呼ぶ。
 
原因 cause と結果 effect (因果)は
科学的 scientific な関係性 relationship だ、
 
共時性 synchronicity」は
詩的 poetic な関係性 relationship だ。
 
 
 
共時性 synchronicity」によるという意味は
 
もし、何かがどこかで起こったとして
そして、あなたがそれに利用可能 available になると、
あなたはそれにもろくて弱い vulnerable ままだ、
それと並行 parallel して
何かがあなたの中で応答 respond し始めることができる。
 
しかし、それはそれの原因 cause ではない、
それはそれを引き起こすこと cause はできない。
 
 
 
それはちょうど誰かが美しい音楽を演奏していて
あなたの中に踊るという大きな欲求が湧き上がるようなものだ。
 
それは音楽によって引き起こされた cause のではない、
それはあなたの中の平行応答 parallel response だ。
 
あなたの中で眠っていた
何か…踊るというエネルギー…が
叩かれた hit 
 
原因 cause ではない、
 
ただ叩かれた hit だけだ、
 
刺激された provoke
吹き込まれた inspire。
 
それが「共時性 synchronicity」だ。
 
もしそれが原因 cause であれば
するとそれは誰にでも起こるだろう。
 
 
 
例えば、あなたはここにいる、
3000人のサニヤシン sannyasin が居合わせている present。
 
私はあなた方すべてに利用可能 available だ、
 
しかし、あなたは私に全てを利用可能 available にしてはいない
 
または、もしあなたが私に利用可能 available であったとしても、
 
あなたは異なる方法で利用可能 available だ。
 
質 quality の違い、
量 quantity の違い。
 
もし私があなたの光明 enlightenment の原因 cause であることができるならば、
 
すると、あなた方全3000人は光明 enlightenment になるだろう。
 
 
 
しかし、私は原因 cause ではない、
 
私はただ変化を促す働き catalytic の代理人 agent になることはできる。
 
しかし、そのためには、
あなたは私に向かって開いて open いなければならない。
 
 
 
もし私が原因 cause であれば、
あなたは私に開く open 必要はないだろう。
 
木が開いているかいないかに関わらず
火 fire は燃える、
それが原因 cause だ。
 
100度に熱すると
水 water は蒸発する、
熱が開いているかいないかは関係ない。
 
 
 
原因 cause と結果 effect は盲目的な関係性 relationship だ、
それは物質主義 materialistic だ、
 
それは物質 matter と物質 matter の間だ。
 
 
 
しかし、「共時性 synchronicity」は
物質 material ではない、
 
それは精神 spiritual だ、
それは詩的 poetic だ、
それは愛 love の情事だ。
 
 
 
もしあなたが私にオープン open になれば、
何かがあなたに起こり始めるだろう。
 
そして、覚えておきなさい、
私はそれの原因 cause ではない。
 
あなたは私に感謝する必要はない、
あなたは私にありがたく思う必要はない。
 
私はそれの原因 cause ではない。
 
もし誰かがそれの原因 cause であれば
それはあなただ、
なぜなら、あなたが私の方に向かって開いた open からだ。
 
私は独りでそれをすることはできなかった。
 
私の側では何もしていない。
 
 
 
私は在る present、
 
必要となる全ては
 
あなたも「現在 present」ここ here に在ることだ
 
 
 
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そして、
何かが起こり始めるだろう。
 
そして、誰1人もそれをしない、
 
私もそれをしないし
あなたもそれをしない。
 
私は利用可能 available だ、
あなたは利用可能 available となる、
 
そして、これらの2人のエネルギーが愛の情事の中に落ちると、
彼らは一緒に踊り始める。
 
 
 
だからあなたが私の光明 enlightenment について
知ることができないことを心配しないように。
 
 
 
あなたは言う、
 
「私はただあなたの美しさと信頼 trust を感じることができます。」
 
 
 
これで十分だ。
 
これで成すだろう。
 
そして、ひとたびそれがあなたの中で起こったら、
あなたは知るだろう。
 
ブッダ buddha を知るには
人はブッダ buddha にならなければならない、
 
キリスト christ を知るには
人はキリスト christ にならなければならない。
 
 
 
質問 2
the second question
 
過去数週間、
ちょうど私がこの世界と生 life の
神秘 mystery や奇蹟 miracle に
圧倒 overwhelmed されているのを感じているとき、
 
私は突然
私の外側 outside にあるあらゆるものが
私の目の内側 inside に入るまで
降りて descending 近づいてくるのを感じます。
 
私はその後
ちょうど私の目に座っている
1次元の画面のように見える何かを見ている
私自身を見つけます。
 
それは私にしかすぎないように見えます
そして、私はとても孤独 alone です。
 
しかしその後、
画面上にいる人々が私と一緒に触れ合うinteracting と
私は混乱 confuse になります。
 
そして、あなたは何ですか?
 
あなたも絵の1部だけのように見えます。
 
たとえこのたった数秒でさえも、
これが起こるとき
私はとても怯えます terrified。
 
これは私のマインド(思考)mind が私と遊んでいるのでしょうか?
 
どうして私は本当にとても孤独 alone であることができるのでしょうか?
 
 
 
(osho)
 
マイトリ maitri、
人は孤独 alone だ
 
…孤独 aloneness は究極 ultimate だ…
 
しかし、
独りあること(孤独)aloneness は
寂しさ(孤独)loneliness ではない。
 
 
 
あなたは寂しく孤独 lonely ではない。
 
そこに、
全ての誤解 misunderstanding がある
 
それが、
あなたをとても怯え terrify させる。
 
 
 
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寂しく孤独 lonely である、という意味は
あなたは他者がいないので寂しく思う missing 、ということだ。
 
寂しく孤独 lonely である、というのは
負 negative の状態 state だ。
 
寂しく孤独 lonely である、という意味は
あなたは空っぽ empty を感じている、
 
あなたは他者を探している
 
…あなたは他者を信じ believe、
あなたは他者に依存する depend…
 
そして、他者はそこにいない。
 
なぜなら、他者はそこにいないので
 
大きな無 nothingness がある、
 
しかし、その無 nothingness は
負 negative の無 nothingness の種類だ。
 
あなたは他者を探し求める groping、
そして、あなたは他者を見つけることはできない、
そして、あらゆるものが消え始める。
 
そして、あらゆるものが消え始めるときの
本物の問題は
あなたはあなた自身のままであることができない、ということだ。
 
 
 
他のあらゆるものが消えるとき、
あなたも消えなければならない、
 
なぜなら、あなたは他者に依存 depend するからだ、
あなたは他者の反映 reflection だけだ。
 
あなたは他者の目の中にある
あなたの顔を見ている、
彼らは鏡だ。
 
今や、もうどこにも鏡はない、
 
 
 
あなたは誰かな?
 
 
 
全ては消えてしまった、
その後、どうしてあなたはこの寂しい孤独 loneliness のままであることができるのか?
 
あなたも蒸発 evaporating し始める
そして、それが大きな怖れ fear 、
死 death の怖れ fear を作る。
 
エゴ(欲・自我)ego が死にはじめる
そして、
エゴ(欲・自我)ego はしがみつくための誰かを
どこかで探しはじめる。
 
だからあなたはすぐに人々と触れ合いinteracting 始める。
 
死 death の恐れ fear から
あなたは再び他者に占領 occupied されはじめる。
 
 
 
すると、大きな混乱 confusion がきっとそこにあるだろう
 
なぜなら、あなたの自然な存在 being は
無 nothingness の奥深くへと
入り動いているからだ
 
しかし、あなたは怯え frighten
 
そして、あなたはそれ(無 nothingness の奥深く)の外へと
あなた自身を引っ張り出した。
 
あなたはエネルギーの中に矛盾 contradiction を作り出した、
 
そのエネルギーは中へ行こうとしている
そして、
あなたは外へ飛び出した、
 
したがって、混乱 confusion する。
 
 
 
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しかし、独りあること(孤独)aloneness は究極 ultimate だ。
 
そして、私が独りあること(孤独)aloneness は究極 ultimate だと言うとき、
 
私が意味するのは
1つ One だけ、多 many ではない
ということだ。
 
 
 
あなたは存在 existence から分離 separate していない。
 
誰1人も他の誰からも分離 separate していない、
 
存在 existence はまったく1つ One だ。
 
 
 
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分離 separate の考えは私たちの惨めさ misery だ、
 
「私は孤島 island だ」という考えは
地獄 hell を作る。
 
誰1人も孤島 island ではない、
 
私たちは大陸 continent に属している、
 
私たちはこの海洋 oceanic の存在 existence の1部だ、
 
過去 past、現在 present、未来 future。
 
全ての方向 direction と
全ての次元 dimension で
それは全て1つ One だ。
 
 
 
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実際には、アロン alone という言葉の意味は
 
「全て all - 1つ One」
 
’all-oneness’
 
…それが alone-ness だ。
 
「全て all 1つ One」は alone だ。
 
’all one’ is alone.
 
 
 
しかし、そのためには、
マイトリ maitri、
あなたはこの無 nothingness の中へと
もう少し入って行かなければならないだろう。
 
 
 
最初はその無 nothingness は負 negative だ
 
それは核 core の最も外側だ、
 
その殻の部分は負 negative だ。
 
 
 
もしあなたが少し深く入るならば
あなたは正 positive の負 negativeness を見つけるだろう。
 
その正 positive の負 negativeness は
ゴータマ・ブッダ Gautam Buddha が呼ぶ
涅槃 nirvana だ、
光明 enlightenment だ、
空 shunya だ。
 
 
 
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あなたがもっと深く移動し
 
あなたが
硬い負 negative の部分、
闇 dark の部分の
殻の部分を横切ると、
 
突然、そこには光 light がある。
 
夜は終わった。
 
 
 
すると、あなたはこれまで感じたことのなかった
全く新しい種類の独りあること(孤独)aloneness を感じる、
 
すると、あなたは
寂しい(孤独)loneliness と
独りあること(孤独)aloneness の
区別 distinction を知る。
 
 
 
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寂しい(孤独)loneliness の中では
あなたは他者を探していた、
 
独りあること(孤独)aloneness の中では
他者は消えた、
 
だから、エゴ(欲・自我)ego も消えた。
 
今や、内側 inside には誰もいない
そして、外側 outside にも誰もいない、
 
そして、全ては1つだ。all is one.
 
この1つ unity、
この絶対的な1つあること Onenes は
祝福 benediction をもたらす。
 
 
 
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すると、そこには恐れ fear はない、
 
あることはできない、
なぜなら、今や死 death はあることができないからだ
 
…どうして恐れがあることができるかな?
 
死 death はすでに起こった、
死ぬことができるものが死んだ。
 
 
 
今や、あなたは不死 immortal の世界の中にある、
仙薬 elixir を見つけた。
 
これは私たちが『黄金の華の秘密(太乙金華宗旨)』
The secret of the Golden Flower の経文 sutras  の中で
何度も何度も話すであろう甘露 nectar だ。
 
これは(東洋での)甘露 nectar、アムリタ amrit。
 
これは仙薬 elixir、(西洋での)賢者の石 philosopher's stone だ。
 
 
 
ひとたび、あなたがそれを味わったら、
全ての死 death は消える、
全ての時間 time は消える、
全ての区別 distinction は消える。
 
 
 
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今やあなたは
木をあなたの延長 extension のように見るだろう、
雲をあなたの延長 extension のように見るだろう、
または、
あなたが木の延長 extension のように見るだろう。
 
 
 
今や、中心 center はどこでもあり everywhere
そして、どこにもない nowhere。
 
 
 
「私 ’I’」はもうどこにも存在 exist しない。
 
 
 
その言葉はまったくの偽り false になる。
 
 
 
あるとき、キリスト教の宣教師が禅の導師 master に尋ねた、
 
「人間の旅の終わりの地点は
神 God と1つになる union ことではないのですか?」
 
禅の導師 master は言った、
 
「人間の旅の終わりの地点は
神 God と1つになる union ことではない、
 
なぜなら、
これまでけっして分離 separate していないからだ。
 
必要な全てのことは
洞察のひらめき flash of insight だ
 
それは人がそれを見えるようにする。」
 
 
 
道(Tao タオ)、
タントラ tantra
 
…彼らの洞察 insight は
いわゆる市場の宗教 religion と呼ばれるものよりも
はるかに奥深い。
 
神 God に参加するという用語から、
神 God と1つ One である、と考える、
 
しかし、
 
禅の導師 master の洞察 insight は
はるかに深く見抜いている。
 
彼は言う、
 
しかし、どこに分離 separate があったかな?
 
いつ?
 
分離 separate は全く起こっていない、
 
あなたは分離 separate しているという
夢を見ている。
 
ただ夢から出て来なさい!
 
1つになる union はない、
あなたはいつも存在 existence と1つ One である。
 
一瞬の間も分離 separate していない、
 
分離 separate の可能性はない。
 
 
 
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マイトリ maitri、あなたはとてもとても
重要 important で、重大 significant な洞察 insight に来ている。
 
もし、あなたが怯えず frightened 
そして、この体験 experience から逃げなければ、
あなたはそれを見えるようにする
洞察のひらめき flash of insight に
達するだろう、
 
それとは、全ては1つ One だ。
 
 
 
しかし、恐れ fear はいつもやって来る。
 
それは新しいことではない
…それぞれの探究者 seeker はそれを通らなければならない。
 
そして、それは本当に大変なので
あなたがそれについて考える前に
あなたはすでにそれから逃げている。
 
それはとても恐ろしい frightening
…何をすればいいのかということを
あなたがじっくり考える
時間 time、空間 space、を与えない。
 
それは家が燃えているようだ。
 
あなたはもう考えない、
 
「私は外に出るべきか、または、出ないべきか?」
 
もう選択肢 alternative は残っていない、
 
あなたは何も考えずただ単に家から逃げ出す。
 
考える時間 time はないのだ。
 
後であなたは考えることができる。
 
あなたが家の外にいるときに、
木の下に座って、
あなたは余裕を持ってじっくり考えることができる。
 
しかし、家が燃えているとき、
どうやってあなたは考えることができるかな?
 
行動 action が直ちに必要だ
そして、考えることはけっして直ちにではない。
 
それが問題だ、
 
あなたがあなたの独りあること(孤独)aloneness の中へ入るとき、
まず最初に、それはとても寂しい(孤独)lonely、
 
なぜなら、あなたは他者の考えと一緒に生きていたからだ。
 
それは夢の考えだった、
他者はそこにいない。
 
「私’I’」と「汝(あなた)’thou'」
…どちらも偽り false だ。
 
 
 
マーティン ブバー martin buber は言う
究極の祈りの質は
「私’I’」と「汝(あなた)’thou'」の間の対話 dialogue だ、と。
 
そこがユダヤ教がつまる stuck ところだ。
 
 
 
究極の祈り
まったく対話 dialogue ではない、
 
究極の祈り
独白 monologue だ、
 
なぜなら、他者はいないからだ。
 
 
 
ある禅の導師 master が
朝に彼自身の名前を呼んでいた、
 
毎朝、彼は彼自身の名前を叫び、言う、
 
「お元気ですか?」
 
そして、彼は答える、
 
「私は元気です。」
 
あなたは彼が狂ったと考えるだろう、
しかし、これが祈りだ。
 
「私’I’」はない、
「汝(あなた)’thou'」はない。
 
あなたはどちらの側をも演じなければならない。
 
それはゲームだ、
それは遊びだ。
 
祈りは遊びだ、
あなた自身との遊びだ。
 
「他者 other」はいない。
 
 
 
しかし、ユダヤ教はそこでつまる stuck、
「私’I’」と「汝(あなた)’thou'」という考えで。
 
だからこそ、彼らはイエス Jesus にたくさん反対した、
なぜなら、
彼は宣言 declared したからだ
 
…禅の導師 master が宣言 declare したような
大胆 drastic ではなかったにもかかわらず…
 
彼の状況ではもっと大胆 drastic になる可能性はなかった。
 
しかし、まだ彼は言った、
 
「私と私の父は1つ One だ。」
 
しかし、それは人々が激怒 infuriate するのに十分だった。
 
人々は怒った。
 
「彼は何を言っているのか?
彼自身が神 God だと宣言 declare しているのか?」
 
彼は何も言わない、
彼は彼自身を神 God だと宣言 declare していない、
 
彼は単に
神 God と信者 devotee はいない
と言っている、
1つ One だけがあると。
 
 
 
確かな状況の中で
あなたはそれを「信者 devotee」と呼ぶことができる、
 
他の状況の中で
あなたはそれを「神 God」と呼ぶことができる。
 
だから彼は言う、
 
「私と私の父は1つ One だ。
 
もし、あなたが私の肉体 body を見るならば
私は息子だ、
 
もし、あなたが私の魂 soul を見るならば
私は父だ。
 
もし、あなたが私の形 form を見るならば
私は人間だ、人間の息子だ、
 
もし、あなたが私の本質(性)essence を見れば
私は神 God の息子だ。」
 
だから、彼は何度も何度もそれを繰り返し続ける。
 
ときには彼は言う、
私は人間の息子だ、
 
ときには彼は言う、
私は神 God の息子だ。
 
矛盾 contradictory しているように見えるが、
そうではない。
 
 
 
マイトリ maitri、あなたは言う、
 
「過去数週間、
ちょうど私がこの世界と生 life の
神秘 mystery や奇蹟 miracle に
圧倒 overwhelmed されているのを感じているとき、
 
私は突然
私の外側 outside にあるあらゆるものが
私の目の内側 inside に入るまで
降りて descending 近づいてくるのを感じます。」
 
 
 
あなたが見る全てはあなたの目の投影 projection だ。
 
それはあなたがまだ見ていない世界のようだ。
 
あなたが見ている何かは単なる投影 projection だ、
 
だから、あなたが「内向 inward」へと動きはじめるとき、
 
あなたが世界に投影 project したあらゆるもは
目にどんどん近づき
そして、あなたの目の中へと消えるだろう。
 
この世界はあなたの目の投影 projection だ。
 
あなたはそれが見えない、
 
あなたがそれに夢を投影 project する。
 
 
 
例えば、
すばらしいダイアモンド、コヒノー kohinoor がある。
 
さて、それは他のどの石のようなただの石だ、
しかし、私たちはそれにとても大きな価値を投影 project した。
 
コヒノー kohinoor のために
たくさんの人々が死んだ、
 
それを所有 possess した者は誰であれ殺された。
 
さて、それのばかばかしい nonsense 全体 whole を見てごらん、
 
人々の投影 projection のために
ただの石がとても殺人的 murderous なことが証明された。
 
世界の中でそれは最も貴重 precious な物の1つだ、
世界の中で高価な costliest 物だ、
 
しかし、もし人間が地球から消えれば
それは他のどの小石 pebble より何かになるだろうか?
 
それは他の小石 pebble と同じように
ただそこに転がっているだろう。
 
区別 distinction なく、
違い difference なくあるだろう。
 
 
 
どこからその違い difference はやって来るのか?
 
私たちの目の投影 project、
私たちはそれを特別 special なものにする。
 
私たちはその上に
私たちの欲 desire 、貪欲 greed を注ぎ続ける。
 
それはとても貴重 precious になり、
そして、とても危険 dangerous にもなる。
 
 
 
もし、あなたがコヒノー kohonoor に瞑想 meditation すれば、
静かにそれを見て、それを見ると、
ある瞬間がやって来る
あなたがコヒノー kohonoor から何かが
あなたの目にどんどん近づいて来るのを見るとき
すると、それは目の中へと消える。
 
すると、あなたはあなたの目を開ける
…コヒノー kohonoor は消えた。
 
何かがそこにある、
しかし、以前あなたはそれを知らなかった
そして、以前あなたが知っていたものは
もうそこにはない。
 
美しい体験 experience、
途方もなく tremendously 重大 significant だ。
 
その中へと入って行きなさい、
深く、深くその中へと入って行きなさい。
 
全世界を消しなさい。
 
 
 
そうだ、その中では私も消えるだろう、
なぜなら、私は
あなたがまだ見ていないものだからだ
そして、あなたが見ているものはあなたの投影 projection だからだ。
 
あなたの投影 projection は消えるだろう、
そして、全てのあなたの投影 projection が消えるとき、
その後、世界は裸 nakedness の状態になる、
ありのままの。
 
なんて不思議だろう!
 
すると、小さいものがとても素晴らしい
すると、普通 ordinary の小石 pebble はとても素晴らしい。
 
コヒノー kohonoor のために
彼らは素晴らしくあることができない、
 
あなたはコヒノー kohonoor に全てを投影した、
あなたは他のどれにも
どんな愛 love も残さなかった。
 
 
 
ひとたび投影 projection が消えると
あなたはあなたの目を開ける、
 
Empty eyes 空っぽな目、
 
全く何も投影 projection しない、
なんであれただそれを見る、
それが何であるのかという考えもなく、
名前 name もなく、
ラベル label もなく、
解釈 interpretation なく、
ただ見る seeing、
空っぽ emptied、
受容的に passive、
世界はまったく異なる意味を持ってやって来る、
重大な。
 
 
 
「私は突然
私の外側 outside にあるあらゆるものが
私の目の内側 inside に入るまで
降りて descending 近づいてくるのを感じます。
 
私はその後
ちょうど私の目に座っている
1次元の画面のように見える何かを見ている
私自身を見つけます。」
 
 
 
完全に良い
それは完璧に正しい。
 
これは人が瞑想 meditation へ深く入って行く方法だ。
 
 
 
「それは私にしかすぎないように見えます
そして、私はとても孤独 alone です。」
 
 
 
ただ唯一の問題は
 
あなたがまだそこにいるということだ、
 
だからこそ、あなたはとても孤独 alone に感じる。
 
あなたが意味するのは寂しい(孤独)lonely だ。
 
「私’I’」は孤独 alone のままだ、
「汝(あなた)’thou'」は消えた、
 
そして、「汝(あなた)’thou'」なしでは
「私’I’」は寂しい(孤独)lonely。
 
 
 
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「私’I’」は関係性 relationship の中だけで存在 exist する、
 
「私’I’」は実体 entity ではない
しかし、関係性 relationship だ
 
…それは「汝(あなた)’thou'」なしでは存在 exist することができない、
 
それは「汝(あなた)’thou'」を必要とする。
 
 
 
どうやって愛する者 lover は
最愛の者(恋人)beloved なしで存在 exist できるのか?
 
ひとたび、最愛の者(恋人)beloved がいなくなれば
愛する者 lover は消えはじめる。
 
あなたは最愛の者(恋人)beloved が必要だ。
 
愛 love は関係性 relationship だ、
 
だから、「私’I’」は関係性 relationship だ。
 
そして、どうにかしてあなたが「私’I’」をまだ守っているので、
あなたは「私’I’」を手放す十分な勇気を持てないままでもある。
 
 
 
全世界が消えたように、
この「私’I’」も消えなさい。
 
最初は恐ろしいだろう、
それは死 death の過程 process になるだろう
 
…それは死 death の過程 process だ。
 
それはまるであなたが自殺 suicide をするようだ、
それはまるで…
 
あなたがどこへ行こうとしているのか誰が知る、
あなたは再び帰って来るのか来ないのか?
 
それはまるでもし狂気 madness が
あなたの中で爆発 exploding しているかのように見えるだろう。
 
そして、大きな恐れ fear が生じるだろう
そして、その恐れ fear の中であなたは何度も何度も追い出す thrown out だろう。
 
それは何度も起こるだろう。
 
ゆっくり、ゆっくりとあなたは
とても恐れないことを学ばなければならないだろう、
 
恐ることはなにもない。
 
あなたは宝物のとても近くにいる。
 
 
 
これらは導師 master があなたを助けることが必要な瞬間だ、
あなたに勇気 courage を与え、
あなたの手を握って、
あなたに言う、
「マイトリ maitri、全ては完璧に正しい。
入って行きなさい!」。
 
私も同じものを通らなければならなかった
そして、私もまたあなたと同じようにたくさん恐れた afraid。
 
そして、あなたか出てきたように何度も私は出てきた。
 
そして、あなたは私よりもっと幸運 fortunate だ
 
なぜなら、私は導師 master がいなかったからだ
 
…私に勇気 courage を与える者は誰1人もいない、
私の手を握る者は誰1人もいない。
 
私は単に私自身によって奮闘 struggling していた。
 
誰1人も私に先に何が起こるのかを話すことができる者がいなかった。
 
私は手探り grope でその中に入って行かなければならなかった
 
…そして、それは危険 dangerous だった、
それは狂気 maddening だった。
 
そして、その当時、私の周りにいた人々は
私が狂ったとすでに信じはじめていた。
 
私を愛したみんなは心配していた
 
…私の友達は心配していた、
私の先生達、私の大学の教授達は心配していた、
私の両親は心配していた、
みんな心配していた。
 
しかし、私は行かなければならなかった。
 
何度も私は外に出た、
恐れ fear はとても大きかった。
 
私は恐れを完全に精通 acquainted している。
 
しかし、ある日、
人はそれと向き合わなければならない
そして、それを通らなければならない、
なぜなら、何度も何度もあなたはそれに落ち
そして、あなたは急いで外に出る。
 
そして、外はもはや意味がない、
外は全て空っぽ empty だ。
 
そして、あなたは内側 inside にやって来る
…そして、恐れる fear。
 
あなたは2つの間で選ばなければならない。
 
 
 
外側 outside はもはや適切 relevant ではない。
 
あなたは空っぽ empty の しぐさ gesture をし続けることはできる、
 
しかし、どれくらい長くあなたはあなた自身を欺く deceive ことができる?
 
あなたはその画面 screen が空っぽ empty であることを知っている
そして、全てのあなたの投影 projection は死んでいる。
 
そして、あなたは内側 inside に行く…
そして、恐れ fear、大きな嵐の恐れ fear が生じる。
 
しかし、他の道(方法)はない
…人は
この死 death の後に何が起こるのかを
確かに知るために
それを通らなければならない。
 
まもなくあなたはより良い勇気 courage を集める。
 
そして、私は再び言う
あなたはもっと幸運 fortunate だ、
 
なぜなら、私はまったくの空 emptiness の中であなたの先に立っている、
 
何度も何度もあなたを呼ぶ
「おいで!みんなおいで!来なさい!」。
 
そして、
キリスト christ が墓 grave からラザロ lazarus を呼ぶように
 
「ラザロ lazarus、出ておいで!」
 
私はあなたを呼び続ける。
 
 
 
実際に、その寓話 parable は歴史的な事実ではない、
それは寓話 parable だ。
 
それは外側 outside から内側 inside への動きの寓話 parable だ。
 
その意味が失われるとき
外側 outside は墓 grave になる。
 
外側 outside は単なる
無益 futility、
不毛の土地 wasteland、
墓 grave になる。
 
その中ではそれ以上何1つも成長しない、
その中ではそれ以上何1つの花はない
 
…どんな歌と踊りの可能性はない…
 
そして、あなたは
空っぽ empty の動作 motion、
空っぽ empty のしぐさ gesture のみで生きる。
 
 
 
しかし、導師 master は
あなたが恐れている afraid 場所に立っていて
そして、彼はそこから呼んでいる。
 
私はあなたの外側 outside に立っているだけではない、
 
あなたは最奥の無 nothingness の中で
私と会うだろう
 
…私としてではなく、
もちろん、人 person としてではなく
しかし、存在 presence として、
 
あなたから分離 separate ではない
しかし、
あなたと1つ One だ。
 
 
 
だから、私はとてもたくさんサニヤス sannyas を要求 insist する。
 
あなたがサニヤシン sannyasin (探究者)でない限り
内側 inside からあなたを呼ぶことは
私には難しくなるだろう。
 
私は外側 outside からあなたを呼ぶことはできる、
 
しかし、すると、あなたはただの生徒 student のままだ。
 
私はあなたに少しのことを教える teach ことはできる
 
…それは知識 knowledge になるだろう…
 
しかし、私はあなたの内側 inside からあなたを呼ぶことはできない、
 
あなたの心 heart から。
 
そして、その必要性がそこにある。
 
もし、あなたが私の弟子 disciple になる場合にのみ
それは可能だ、
 
もし、あなたがサニヤシン sannyasin ならば、
もし、あなたが私と共に行く用意があるならば、
もし、あなたが私を信頼 trust する用意があるならば、
ある瞬間の中で。
 
私はそれらの「ある瞬間」を使い
遅かれ早かれ、彼らはあなたの存在 being の状態になるだろう。
 
 
 
だから、行きなさい。
 
さあ
この「私 ’me’」、
この「私’I’」も
消えなさい disappear。
 
そして、ひとたび、この「私’I’」が消える disappear と
寂しい(孤独)loneliness はなくなり、
独りあること(孤独)aloneness がある。
 
そして、独りあること(孤独)aloneness は美しい、
 
独りあること(孤独)aloneness は自由 freedom だ、
 
それは良い存在 being のとても正の感じ positive feeling だ、
 
大きな喜び joy の正の感じ positive feeling だ、
 
それは祝祭 celebration だ。
 
 
 
「それは私にしかすぎないように見えます
そして、私はとても孤独 alone です。」
 
 
 
そうだ、もし「私’I’」が残っているならば
あなあは寂しい(孤独)lonely ままだろう。
 
 
 
「しかしその後、
画面上にいる人々が私と一緒に触れ合うinteracting と
私は混乱 confuse になります。
 
そして、あなたは何ですか?
 
あなたも絵の1部だけのように見えます。」
 
 
 
私を外側 outside の絵の1部になることを許しなさい、
 
そうするときだけ、私は内側 inside から働きはじめることができる。
 
私を外側 outside から消しなさい
そうすると、あなたは内側 inside で私と出会うことができる。
 
そして、それが私の真実 truth になる。
 
そして、それがキリスト christ の真実 truth だ
 
そして、それがゴータマ・ブッダ Gautam Buddha やクリシュナ krishna の真実 truth だ。
 
それは全ての導師 master たちの真実 truth だ、
 
目覚めた awakened 全ての者たちの真実 truth だ。
 
 
 
「たとえこのたった数秒でさえも、
これが起こるとき
私はとても怯えます terrified。」
 
 
 
それは自然 natural だ、
 
しかし、勇気 courage を集めなさい。
 
私はあなたと一緒にいる。
 
入って行きなさい。
 
 
 
「これは私のマインド(思考)mind が私と遊んでいるのでしょうか?」
 
 
 
いいや、まったくそうでない。
 
マインド(思考)mind は恐れ fear を作り出す、
この体験 experience ではない。
 
恐れ fear が作られるとき
マインド(思考)mind は遊んでいる。
 
全てのあなたの投影 projection がどんどん近づいて
あなたの目の中で消えるのを
あなたが見るとき
それはマインド(思考)mind ではない。
 
あらゆるものが白い空っぽの画面 white empty screen になるとき
それはマインド(思考)mind ではない、
 
それは瞑想 meditation だ、
 
それはマインド(思考)mind が無い no-mind の方への動きだ。
 
 
 
マインド(思考)mind は恐れ fear を作り出す。
 
それがマインド(思考)mind が無い no-mind 方へとても近づくとき、
それは死 death をたいへん恐れる afraid ようになるので
それは恐れ fear を作り出す。
 
そして、その恐れ fear の中で
あなたは再び急いで外に出る。
 
次にそれが起こったら、
マイトリ maitri、中へ行きなさい、
恐れ fear をものともせず。
 
ちょうど犬が吠えているにもかかわらず
移動し続ける象のように。
 
犬には吠えさせなさい。
 
象のように移動し続けなさい。
 
マインド(思考)mind について
まったく気にしないように
 
…それが何と言っていても。
 
 
 
質問 3
the third question
 
光明 enlightenment を得た人が
妄想 delusion の中に後戻りすると
どうなりますか?
 
 
 
(osho)
 
落ちた花は枝に再び飛んで戻ることはない。
 
それは可能ではない。
 
光明 enlightenment を得た人は
幻想 illusion の中に後戻りすることはできない。
 
その道(方法)はない、
 
たくさんの理由からその道(方法)はない。
 
 
 
第1の理由 : 
 
光明 enlightenment を得た人はもういない
 
…誰が後戻りするのだろうか?
 
光明 enlightenment だ。
 
「光明 enlightenment を得た人」といようなものはない。
 
光明 enlightenment は完全にある、
 
しかし、光明 enlightenment を得た人というのは誰1人もいない。
 
それは単なる話し方だ、
言語の誤り linguistic fallacy だ。
 
誰が後戻りするのだろうか?
 
後戻りをすることができるその人は消えた。
 
そして、その人はどこで後戻りできるのか?
 
ひとたび、あなたがそれが幻想 illusion であるということを見つけたら、
それはもうない。
 
ひとたび、あなたがそれはもうないということを見たら、
それで終わりだ!
 
あなたはどこに戻ることができるのか?
 
それは可能ではない。
 
 
 
しかし、私たちのマインド(思考)mind の中に考えが生じる
 
なぜなら、生 life の中で
私たちはそのようなものはけっして見たことがなかったからだ。
 
私たちは1つのことに達する
そして、私たちは後戻りする、
 
私たちは愛 love の中にいる
そして、私たちはそれの外に出て後戻りする。
 
私たちは恋に落ちる
そして、私たちはそれの外に出て後戻りする。
 
私たちは幸せだ
そしてその後、私たちは不幸になる、
 
私たちは良いと感じている
そしてその後、私たちはとても悪いと感じはじめる。
 
 
 
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私たちは二元性 duality を知っている、
 
その二元性 duality はけっして消えない、
 
だから、
あたかも光明 enlightenment
もしかしたら後戻りできるかのように
私たちが考えるのは自然だ。
 
 
 
光明 enlightenment
不二 non duality / advaita の実現 realization だ。
 
 
 
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だから、禅の導師 master は言う
サムサーラは涅槃だ、と。
 
 
 
まさに世界は涅槃 nirvana だ、
 
まさに幻想 illusion は真実 truth だ、
 
区別 distinction は残されていない。
 
これは真実 truth
そして
これは幻想 illusion
というのはない、
 
全てが真実 truth だ、
真実 truth だけがある。
 
 
 
どこにあなたは後戻りできるのか?
 
あなたは戻ることのない地点を超越 beyond した。
 
誰1人も後戻りしたことはない。
 
 
 
そして、これらの人々について心配することはない
 
…あなたはあなた自身について心配するべきだ。
 
最初に光明 enlightenment を得る
そしてその後、後戻りを試す
 
そしてその後、あなたはわかるだろう
 
…光明 enlightenment を得ることの方が簡単であると!
 
後戻りはとても難しい。
 
私は試してみた、
しかし、私は成功していない。
 
 
 
最後の質問
the fourth question
 
至福 bliss と惨め misery について説明してください、
愛 love または美 beauty に私が向き合う間はかならず、
私は途方もない痛みだけを感じ
至福 bliss はありません、
そして、私はこれを理解 understand していません。
 
 
 
(osho)
 
スパルナ suparna、
あなたは何度も何度も話された、
あなたは何度も何度も教えられた、
 
嬉しく joyous なることは間違い wrong で
惨め miserable になることは正しい right と。
 
あなたはとても直接に話されていないかもしれない、
しかし、間接的にあなたは条件付けられた conditioned 
そして、惨めさ misery のために催眠 hypnotized をかけられた。
 
あなたは惨めさ misery は自然なことであると信じはじめた。
 
あなたは周り全てが惨め misery なのを見る、
惨めさ misery はたくさんある abound、
みんな惨め misery だ。
 
ものごとはそうであるかのように見える。
 
 
 
あなたが生まれたとき、
あなたは幸せな子供だった
…全ての子供が幸せであるように。
 
そうでなければそれは起こらなかった、けっして。
 
いつでも子供が生まれるとその子は幸せだ、
まったく幸せだ。
 
そして、だからこそ、子供たちはとても自分勝手に見える、
彼らは彼ら自身のことを考えるだけだ、
彼らは世界について心配していない。
 
そして、彼らは小さいことについて幸せだ。
 
庭の中の蝶々、
そして、その完全な喜び joy と
彼らの驚き wonder
 
…小さなものでも、
なんでもないものでも、
 
しかし、彼らは幸せだ、
 
彼らは自然に幸せだ。
 
 
 
しかし、ゆっくり、ゆっくりと
私たちは彼らの幸せを不自由 cripple にする、
私たちはそれを破壊 destroy する。
 
私たちはとてもたくさんの幸せを許す tolerate ことができない。
 
世界はとても惨め miserable だ
そして、私たちは世界のためにそれらを準備 prepare しなければならない。
 
 
 
だから、間接的に私たちは
「世界は惨め misery である」
「あなたは幸せになる余裕 afford はない」
「幸せはただの希望 hope だ、
どうやってあなたは幸せになることができるのか?
そんな自分勝手にならないように!
周り全てにとてもたくさんの惨め misery がある
…他者を感じなさい、
他者を思いやりなさい consider。」
と、彼らに吹き込み indoctrinating はじめる。
 
ゆっくり、ゆっくり、子供は
幸せになることは罪の一種だと感じだす。
 
世界がそのような惨め misery なときに
どうやってあなたは幸せになることができるかな?
 
 
 
人々は私に手紙を書いて尋ねる、
「世界がそのような惨め misery の中にあるときに
どうやってあなたは人々に瞑想 meditation を教える teach ことができるのか?
 
人々が飢えている starving ときに
どのようにして人を幸せにできるのか?」
 
あたかも不幸であるかのように
あなたは彼らを助けるだろう!
 
あたかも瞑想的 meditative ではないかのように
あなたは彼らのどんな種類の奉仕 service にもなれるだろう!
 
あたかも戦争 war が消えるかのように
もしあなたが瞑想 meditation をしなければ、
そして、貧困 poverty は消えるだろう
もしあなたが幸せでないならば!
 
 
 
しかし、惨め misery は台座 pedestal に置かれ、
惨め misery は崇拝 worshipped される。
 
私はいつも
十字架 cross のせいで
キリスト教は最も大きな宗教 religion になったのではないかと思う。
 
それは惨め misery、苦難 suffering を表す represent。
 
 
 
クリシュナ krishna は大きな宗教 religion になることはできなかった
彼の笛 flute のために
彼の踊り dance のために。
 
クリシュナ krishna を崇拝 worship する者でさえ
彼について少し罪悪感を感じる。
 
どうしてあなたはガールフレンドと一緒に踊って dancing 
そんなに幸せになれるのか?
 
そして、1人だけではなく…千ものの!
 
そして、笛 flute で歌い singing 演奏する playing!
 
そして、人々は死に瀕していて
そして、死 death と餓死 starvation があり
戦争 war、
暴力 violence、
さまざまな種類のことが周りで起こっている。
 
それは地獄 hell だ、
そして、あなたはあなたの笛 flute で遊んでいる!
 
それは無情 callous のようで、
それは残酷 cruel のようだ。
 
 
 
エス Jesus は
十字架 cross の上で死んで、
もっとふさわしい suitable ようだ。
 
エス Jesus の顔を見てごらん!
 
キリスト教のやり方では長い間
彼の顔は悲しく描かれてきた。
 
彼は地球の全ての重荷 burden を背負っている。
 
彼は全ての人々の全ての罪 sin を
彼自身の上に乗せた。
 
彼は最も偉大な奉仕者 servant のようだ
…とても身勝手ではない unselfish。
 
 
 
しかし、私の感じでは
キリスト教はキリスト christ を誤って描いた depicted。
 
このキリスト christ は神話 myth だ、
 
本当のキリスト christ はクリシュナ krishna に似ている。
 
実際に、
もし、あなたが「キリスト christ」という言葉の中に
奥深く降りて行くならば、
あなたは驚くだろう、
 
「キリスト christ」は
「クリシュナ krishna」から来ている、
 
その根源は「クリシュナ krishna」だ。
 
 
 
キリスト christ はとても楽しい joyous 人だったに違いない、
そうでなければ、
どのようにしてあなたは彼が
食べたり eating、
飲んだり drinking、
陽気にはしゃぐ merry
ことを考えることができるのか?
 
友達が集まり
そして、彼らは食べたり、飲んだり、噂話をしたりする
たくさんの場面 scenes がある。
 
彼はいつも「福音 gospelling」ではない、
ときどき彼は噂話 gossiping もする!
 
そして、彼は
よく飲んだり食べたりする
生 life の小さな喜び pleasure を楽しむ
唯一の神 God からの使者 messenger のようだ。
 
 
 
私の感じでは
もし禅の導師 master がイエス Jesus の宗教 religion を作ったならば、
彼らは十字架 cross の上で笑う彼を作るだろう
…腹から笑う belly laugh。
 
エス Jesus はボディダルマ Bodhidharma と同じ
大きな腹 belly を持つだろう!
 
そして、その腹 belly は
大きな笑いで地震のように揺れるだろう!
 
そして、それはより真実 true で、はるかにもっと真実 true だ。
 
 
 
日本と中国でも
ゴータマ・ブッダ Gautam Buddha  の像 statue は
大きな腹 belly に作られている。
 
インドでは
それは大きな腹 belly に作らない、
いいや、まったくない。
 
インドの概念 concept では、
ヨガ yogic の概念 concept は
腹 belly はとても小さくなければならない
そして、胸 chest は大きくなければならない、
 
なぜなら、ヨガ yogic の呼吸は誤った呼吸だからだ、
それは自然ではない。
 
それはあなたからモハメッド アリ mohammed ali を作ることはできる、
しかし、ゴータマ・ブッダ Gautam Buddha を作ることはできない。
 
それはミスターユニバース mr universe の形をあなたに与えるだろう、
しかし、世界の中の他の種類の人々で
より醜い ugly 人をあなたは見たことがありますか?
 
ミスターユニバース mr universe は最も醜い ugly ようだ。
 
どんな女性もミスターユニバース mr universe と恋に落ちることはできないと思う。
 
彼はとても動物的 animalistic に見える
…全ての筋肉、人ではない、
ただの機械装置 mechanism の種類だ。
 
彼の筋肉の動きを見てごらん
…ただの機械装置 mechanism の種類だ、機械だ、
しかし、魂 soul はない!
 
 
 
インドのゴータマ・ブッダ Gautam Buddha の像 statue はヨガ yogic の像だ。
 
中国でゴータマ・ブッダ Gautam Buddha の像 statue を彼らが作ったとき、
彼らは大きな腹 belly でそれを作った。
 
人が笑うとき
そして、人が自然に呼吸するとき、
腹 belly はゆっくりと大きくなる、
なぜなら、人の呼吸は腹 belly からで
胸 chest からではないからだ
 
…呼吸は全体 whole の方へと降りていく。
 
 
 
もし、禅がキリスト教から宗教 religion を作ったならば
エス Jesus が十字架 cross の上にある、
しかも笑っている、
そのような笑いは何世紀にも渡って鳴り響く resound だろう。
 
しかし、それは宗教 religion の成功はなかったかもしれない、
なぜなら、泣いたり crying 嘆いたり weeping することだけしか知らない人々に
どうしたらそれは適する suit だろうか?
 
彼は完全に一風変わった eccentric、
奇妙な outlandish ように見えるだろう。
 
十字架 cross の上にいて
そして、悲しい見た目は完全に正しい、
なぜなら、誰もがみな確かに十字架 cross と悲しみ sad の上にいるからだ。
 
 
 
そして、あなたは
世界は誤った場所 wrong place であると
あなたのとても幼い頃 childhood から
教えられたに違いない。
 
どうしたらこの場所であなたは幸せになることができるのか?
 
私たちは罰 punishment のようなものに苦しんでいる suffering。
 
神 God はアダム adam とイブ eve に楽園 paradise を去るように命じた
 
なぜなら、彼らは従わなかった disobeyed からだ、
 
そして、人類はその災い curse の下にある。
 
どうしたらあなたは幸せになることができるのか?
 
キリスト教徒 christian である
そして
幸せ happy
それは名辞矛盾 contradiction in terms であるだろう。
 
 
 
だから、スパルナ suparna、
あなたは世界は惨めな miserable 場所だと教えられたに違いない、
 
その中では惨め misery は完全に正しい、
それと調和 tune している。
 
そして、誰もがみな惨め miserable だ、
 
幸せ happy で喜ぶ joyous ことは
あなたにとっては
それはとても難しく残酷 cruel になるだろう。
 
だから、人々は罪悪感 guilty を感じる
そして、楽しむ瞬間であってもためらう hold back。
 
 
 
ラーソン larson はシャーロット charlotte を連れて
田舎の外へとドライブし荒地が広がるdesolate stretch 中に車を駐車した。
 
「もしあなたが私にみだらな molest ことをするならば、」
シャーロット charlotte は言った、
「私は叫ぶでしょう。」
 
「何がいいの?」
ラーソン larson は尋ねた。
「周り何マイルに魂 soul はないよ。」
 
「知ってます、」
シャーロット charlotte は言った、
「でも、楽しい時をはじめる前に
私は私の良心 conscience を満たしたいの。」
 
 
 
人々は愛を交わす make love ことさえ
十字架 cross の上にいるように
悲しい sad 顔をする
…深刻 serious で、義務 duty でする。
 
そして、彼らが楽しみたいことでさえ
彼らはそれを隠す、
それは「正しいようではない」、
彼らは罪悪感 guilty を感じる。
 
 
 
もし、人々が本当に愛を交わす make love ことを喜ぶならば、
彼らは叫ぶ scream だろう、
彼らはわめく shout だろう、
彼らは泣く cry だろう、
彼らは嘆く weep だろう、
彼らは笑う laugh だろう。
 
どんな種類の感情 emotion が現れるのか
人はけっしてわからない、
 
だから、コントロールの中で
あなた自身を保つほうがいい、
 
そうでなければ、あなたはとても愚か foolish に見えるだろう。
 
すると、近隣はなんて思う?
 
そして、近代の壁はとても薄い
あなたはヨガ Yoga の姿勢 posture で愛を交わさなければならない
…shavasana、死体の姿勢 posture で。
 
そして、それをできるだけ早く終わらせ、
オーガズム orgasmic にならないようにする。
 
あなたは何をしているのか?
 
そして、イエス Jesus は十字架 cross の上で
あなたのために苦しんだ suffered!
 
そして、あなたは喜びとともに叫び shouting ましたか?
 
 
 
エス Jesus を考えてごらん、
かわいそうなイエス Jesus、
彼はあなたをなんて思うだろう?
 
神 God を考えてごらん
 
…覗き見をする人 peeping torn みたいに
いつも鍵穴から見ている…
 
神 God はなんて思うだろう?
 
もし、あなたが
全ての神 God たち
天使 angels たち
キリスト christ 
聖人 saints たち
を考えるならば
 
…すると、彼らはみな愛を交わす making love あなたを見ている、
そして、おおいに楽しむ relish…
 
あなたは地獄 hell の中で苦しむ suffer だろう!
 
それはコントロールを保つ方がえ、
それは罪悪感 guilty を感じることはいい。
 
だから、愛を交わした making love 後
人々は悲しいような
欲求不満 frustration のように感じる、
まるで彼らはなにかの犯罪 criminal を犯したように。
 
再び彼らは彼ら自身を楽しんだ
「それは正しくない」と。
 
 
 
ただ見てごらん。
なんであれ、あなたが惨め miserable に感じることは
なにか良いと感じる。
 
それは矛盾 contradiction のように見えるだろう、
 
しかし、それはこのようだ、
 
なんであれ、あなたが惨め miserable であると
あなたは至福 blissful を感じる
 
そして、なんであれ、
あなたが至福 blissful であると
あなたは惨め miserable に感じる。
 
 
 
あなたは言う、
 
「至福 bliss と惨め misery について説明してください、
愛 love または美 beauty に私が向き合う間はかならず、
私は途方もない痛みだけを感じ
至福 bliss はありません、
そして、私はこれを理解 understand していません。」
 
 
 
あなたはまったくこれを理解 understand できないだろう
 
なぜなら、あなたの全理解 whole understanding は毒されているからだ。
 
あなたは全てのマインド(思考)mind を
落とさなければならない!
 
理解 understand する必要はない。
 
あなたは無垢 innocence で
その中へ入って行かなければならない、
 
理解 understanding なしで、
 
なぜなら、その理解 understanding は
再び計算 calculation のようだからだ。
 
その理解 understanding は
再び知識 knowledge だ
 
それは社会によって与えられた、
 
そして、その知識 knowledge が全ての問題 trouble を作り出している。
 
あなたは再び子供にならなければならない、
無垢 innocent に。
 
 
 
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しかし、あなたは理解 understand したい。
 
理解 understanding について全て忘れなさい!
 
理解 understanding は再び
計算 calculation で、
狡猾 cunningness だ。
 
 
 
私は聞いたことがある…
 
ある高齢 elderly の恋人同士 couple が医者へ行った。
その男性は言った、
 
「もし、私たちが適切に properly 
愛を交わしている make love のかを知りたいのです。
私たちを見てもらえますか?」
 
「どうぞ」
 
医者は言った。
 
彼らは愛を交わした make love。
 
「あなた方は完璧に愛を交わしています。」
 
医者はいった。
 
「それは(費用は)10になります。」
 
彼らは6週間連続してやってきて
同じことをした。
 
7回目の訪問で医者は言った、
 
「あなた方は何のためにこのようにここに来ていますか
…私はあなた方が適切に properly に
愛を交わしている make love と話しました!」
 
その男性は言った、
 
「彼女は私の家に来ることはできません。」
 
その男性は言った、
 
「そして、私は彼女の家に行くことはできません。
モーテルの費用 costs 20です。
あなたは私たちに10の料金を請求 charge します
そして、私たちは国民健康保険 medicare から8戻ってきます。」
 
 
 
計算 calculation しないように、
生 life を悪賢く cunning しないように。
 
さあ、これは何の種類の愛 love だろうか?
 
商売 business、商売 business、商売 business …
 
知識 knowledge は商売 business のために必要とされる、
 
無垢 innocent は生 life のために必要とされる。
 
 
 
知識 knowledge は
市場の中では絶対に必要なもの must だ、
 
しかし、あなたが神秘 mystery の中へと入って行くときは
まったく必要ではない。
 
あなたは知る know ことはできない、
あなたは在る be ことのみできる。
 
 
 
このマインド(思考)mind を落としなさい、
Drop this mind,
 
全てのこの条件付け conditioning を落としなさい、
drop all this conditioning,
 
そして、動きはじめなさい。
start moving.
 
 
 
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あなたが喜び joyous を感じるとき、
喜び joyous を感じなさい、
喜び joyous を感じることをあなた自身が助けなさい、
踊りなさい dance、
歌いなさい sing。
 
 
 
古い習慣 habit はあなたを引き戻す
…それらを聞かないようにしなさい。
 
ゆっくり、ゆっくりと、
あなたは古い習慣 habit を取り除かなければならないだろう。
 
それは苦労 struggle のようだろう、
なぜなら、習慣 habit は簡単にあなたを離れないからだ。
 
しかし、これらの習慣 habit は
あなたに反対 against し
神 God に反対 against する、
 
なぜなら、喜び joy に反対 against する何かは
神 God に反対 against するからだ。
 
もし、神 God がどんな言葉によってでも
定義 define できるならば、
その言葉は「至福 bliss」だ
他には何1つない。
 
 
 
スパルナ suparna、
なんであれ、あなたが美しいと感じるものは
痛み pain があなたの内に生じる、
 
その痛み pain はあなたの存在 being の中にはない、
 
その痛み pain はあなたのマインド(思考)mind の中にある。
 
あなたの存在 being は美 beautiful の中へと入ろうとしている、
 
しかし、
 
あなたのマインド(思考)mind は
あなたを引き戻している。
 
なんであれ、
あなたが愛 love が生じるのを感じたら、
至福 bliss が生じたら、
そして、痛み pain さえも生じたら、
 
至福 bliss を選びなさい。
 
痛み pain を放って neglect おきなさい、
痛み pain を無視 ignore しなさい。
 
痛み pain を無視 ignore すると、
痛み pain は死ぬだろう、
 
もし、あなたが痛み pain に注意 attention を払い続けていたら
あなたは痛み pain に餌を与えるだろう。
 
注意 attention は食べ物だ。
 
間違い wrong には
けっしてどんな注意 attention も払わないようにしなさい、
 
そうでなければ、
あなたはそれがそこにいることを助けている、
あなたはそれにもっともっと力 strength を与えている。
 
無視 ignore しなさい
 
…無視 ignore 以外の良い方法はない。
 
そうだ、そこにいさせて、ただ言う、
 
「いいよ、あなたはそこにいて。
あなたは私の過去 past からのただの遺物 hangover だ。
あなたはそこにいる。
私は先へ進んで行く、
私はあなたに耳を傾けないよ。」
 
 
 
至福 blissful の挑発 provocation に耳を傾けなさい、
いつもそれらと行きなさい、
そして、あなたは正しい方向へ動いていく
 
…あなたは神 God に向かって動いていく。
 
 
 
けっしてあなたに
罪悪感 guilt 、
痛み pain、
惨め misery
を与えるどんなことにも耳を傾けないように
 
…あなたは神 God から離れて動いていく。
 
 
 
なんであれ、
あなたが惨め miserable であると、
あなたは地獄 hell の中にいる
…神 God から遠く離れて行く…
 
 
 
そして、なんであれ、
あなたが完全に喜び joyous であると、
あなたは神 God の中にいる、
あなたは天国 heaven の中にいる。
 
 
 
あなたは言う、
 
「至福 bliss と惨め misery について説明してください、」
 
 
 
惨め misery は不自然 unnatural だ、
 
至福 bliss はあなたの自然な状態(本質)nature だ。
 
 
 
惨め misery は他者 other によって教えられたものだ、
 
至福 bliss は神 God によって与えられたものだ。
 
 
 
惨め misery は条件付け conditioning だ、
 
至福 bliss はあなたの内側にある魂 soul だ、
あなたの本質(性)essence だ。
 
 
 
惨め misery は人格 personality だ、
あなたの周りにあるただの建造物 structure だ、
 
至福 bliss はあなたの自由 freedom だ、
それは建造物ではない unstructured。
 
 
 
「至福 bliss と惨め misery について説明してください、
愛 love または美 beauty に私が向き合う間はかならず、
私は途方もない痛みだけを感じ
至福 bliss はありません、
そして、私はこれを理解 understand していません。」
 
 
 
これを全く理解 understand しようとしないように。
 
ただ痛み pain をそこに残して、
数日間それを受け入れる accept、
そして、愛 love の中へと入る
…狂ったように愛 love の中へと入る。
 
美 beauty 中へと入って行く、
 
木の周りで踊って dance ごらん、
そして、あなたは
あなたに届きはじめる木の形の何かを感じるだろう。
 
星の下で踊って dance ごらん。
 
はじまりは、あなたは
あなたの足が動かず
そして、あなたは動かなければならないと
感じるかもしれない
 
…なぜなら、あなたはとても長い間
踊り dance なしで生きるよう強いられて forced きたため、
あなたの足は踊る dance ことの言語を忘れてしまった。
 
しかし、すぐに彼らは学ぶだろう、
なぜなら、それは自然 natural な言語 だからだ。
 
 
 
それぞれの子供は踊り dance 方を知っている、
それぞれの子供は喜び joyous 方を知っている。
 
あなたは再びそれを学ばなければならない。
 
 
 
しかし、それは自然 natural なので、
それははやく学べる。
 
ただ少しの努力 effort で、
突然、ある日、
あなたは罠 trap から抜け出す。
 
あなたの松葉杖 crutches は捨てなければならない。
 
もし、あなたがときどき倒れるときでさえ、
それは完全に良い、
 
しかし、あなたはあなた自身の足で立たなければならない。
 
社会の松葉杖 crutches、
宗教 religion 組織の松葉杖 crutches、
司祭や牧師 priest の松葉杖 crutches は
捨てなければならない
 
もし数日間あなたが貧困 impoverished を感じるだろうとしても。
 
数日間貧困 impoverished を感じることは自然なことだ、
あなたはそれを受け入れなければならない。
 
しかし、もし、あなたが自然 natural の方へ向かって動いて行くならば、
あなたはあなたの生 life の中で道(Tao タオ)を見つけるだろう。
 
 
 
道(Tao タオ)は自然な開花だ。
 
自然 natural に従いなさい。
 
誰1人も惨め miserable になりたくはない、
そして、みんな惨め miserable だ。
 
彼らは自然 natural に従っていない。
 
 
 
誰1人も至福 blissful より他の何かを欲しくない
そして、誰1人も至福 blissful ではない。
 
 
 
欲 desire に耳を傾けなさい
…最も深い欲 desire は正しい道を指し示して indicate いる。
 
あなたの熱望 longing は
 
至福 bliss のためだ、
 
美 beauty のためだ、
 
あなたを圧倒 overwhelm するだろう何かのためだ、
 
あなたを他の岸 shore へと連れて行くだろう何かのためだ、
 
過去 past と未来 future が洗い流され
そして
あなたがただ今ここ herenow にあるだろう
とても途方もなく tremendous そして信じられない incredible
何かのためだ。
 
 
 
しかし、理解 understand しようとしないように。
 
もし、あなたが理解 understand しようとし始めると、
 
あなたは精神分析 psychoanalysis の犠牲者 victim になるだろう。
 
そして、その分析 analyzing は限りなく続く過程 process だ。
 
あなたは分析 analyzing、分析 analyzing をし続けることはできる
そして、それはけっして終わらない。
 
世界の中でたった1人の人も
完全に精神分析 psychoanalyzed されていない、
けっしてできない。
 
 
 
これは私が精神分析 psychoanalysis と異なるところだ。
 
分析 analysis の中へと入って行かないように。
 
 
 
全てのマインド(思考)mind を横に置きなさい。
 
そこから飛び出しなさい!
 
理解 understand する必要はない。
 
必要な全てのことは生きる live ことだ、
 
真正 authentically に生きなさい。
 
必要な全てのことは在る be ことだ。
 
 
 
Enough for today.
 
 
 
chapter 3 へ続く : The Atomic Moment…
 
 
 
osho の講話は
1日目はある題材に関するお話、
2日目は質問に答えるお話、
というように1日起きにその順番で行われます。
 
あらゆる質問にものすごく丁寧に、
詳しく、わかりやすく、話していています。
 
はじめは厳しいように感じるかもしれませんが
人々が苦しみに気づき、手放せるように、と
とても深い愛 love の導きがあります。
 
人々からの質問は一見その講話の題材と
関係ないように思えるかもしれませんが
 
その質問があり、それに答えるからこそ
その題材がより深くわかったりもする
講話となっているような、
 
質問と答えのお話も含めて
何日間にも渡る講話全体を聞き終わると
その題材の講話の内容が
すーと身に染み込むようにわかります。
 
この講話の和訳本がありましたが
もう販売されていなくて入手不可能ですから
自力で英語の講話を読んで
さらに、英語の勉強と osho との瞑想と思い
自力で和訳してみました。
 
とても時間がかかるので
全チャプター和訳する前に
死んでしまうかもしれませんしσ(^_^;)
 
チャプター3 の和訳がいつ終わるのかわかりませんがσ(^_^;)
 
ど素人なので直訳しかできませんがσ(^_^;)
 
趣味レベルでよろしければ
興味がある方はお楽しみください。
 
詳しくは「osho でイングリッシュ!」に書きました。
 
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ぜひ英語の原文で読みたい!という方は…
 
この osho の英語の全チャプターの講話
The Secret of Secrets, Vol 1&2 は 
pdf データで
サイドバーのリンクにもある
OSHO WORLD にてフリーダウンロードできます。
こちらをクリックしてください。
 
 
 
また、この osho samadhi の英語の方のブログでは
この The Secret of Secrets, Vol 1&2 の講話の
全チャプターを載せてありますから
こちらの日本語のブログのように
絵つきでよければご覧になってください。
 
 
 
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subtle body and chakra について
英語の講話の1チャプターだけです。
yoga : the alpha and the omega, vol 9 ch1
 
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from osho talks
 
The Secret of Secrets, Vol 1
 
Talks on the Secret of the Golden Flower
 
Talks given from 11/08/78 am to 26/08/78 am 
English Discourse series
 
chapter 2 : Empty Eyes
 
12 August 1978 am in Buddha Hall
 
 
 
beloved osho
beloved all enlightened masters 
beloved all
 
 
 
”The last word of Buddha was, sammasati. 
Remember that you are a buddha – sammasati.”
 
 
 
sammasati
It means right remembrance.
サマサティの意味は ”正しく想起する”。
 
 
 
meditation & love
 
 
 
osho samadhi
 
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